薄荷塔ニッキ

飛び石を渉れない。

後日語る

(この文章12月2日に書いています)


ポメラ

 28日の日曜日は投票にいった。普段は侵入出来ない小学校という空間を堪能し、そのあと公園で落ち葉を拾ったり写真を撮ったりした。飛行機雲が揺れていた。風が吹いているのだ。風が飛行機雲を流してゆくのは、初めて見た。少し不思議だった。

 その後iPhoneTwitterのアプリを見たら、牟礼鯨氏がポメラを誰かに譲るとの旨のtweetを放っていらっしゃった。こういうことを云うと実に恐縮であるし叱責されるとは思うが正直に云うと、ポメラなる物についてわたしはあまり知らなかった。鯨さんが入手されたときにtweetを投稿されていたのは読んでいたが、「ポラロイドカメラの未来系みたいな名称だなあ」なんて思っていた。少々遅ればせながら、ポメラとは文章を入力する機器のようだと知ったのは最近。すぐに起動する小型の有能なワープロみたいな感じでしょうか。

 鯨さんがその『ポメラ』を譲るとおっしゃっているので、「ほんとう?」とリプライを書き込んだら、「鯨嘘つかない」というお返事を頂いた。ああ、これは本気の事態だ。わたしも本気になるぞ。「安価で……」とわたし。「無料だ」と鯨さん。なんなのだろう、事態はときどき嘘みたいなことになるらしく、牟礼鯨氏から無料でポメラを頂くことになりました。ありがとうございます。ありがとうございます。

 とっても情けないのですが、何かお礼に差し上げたいと思っても鯨さんが何を喜んで下さるか皆目見当が付かない。だからと云って現金を渡すのは失礼過ぎるし、それに、わたしはそんなにフリーな現金を持っている富豪でもない。金貨3枚とかだったら古代ローマみたいで粋かも知れないと思ったけれど、金貨も持っていないなあ。うむむ……。がっかりプレゼントとか脱力プレゼントならわりと得意かも知れないのだけれどそれでは駄目だ。あああ、わたし、駄目だ。


 しかしだ。
 牟礼鯨さんは物語作家でいらっしゃる。泉由良も一応文筆家である。ならば頂いたポメラを使用して小説を書こうと、わたしは決めた。鯨さんが小説を書き上げたそのポメラなのだから、引き継ぐわたしも真摯に書こうと思った。長いものも短いものも書こう。誰かの感情の芯に触るものを書こう。涙が出そうになったり笑顔にさせたり、空から錘が落ちてきたかのようにあたまを痺れさせたりするものを書こう。今までに一度も「自分は書かなければならない」なんて思ったことはないけれど、その感情を初めて抱いた。鯨氏への約束である。勝手に誓約している一方的なもので、ありがたみがあるかは分からないが。

 着払いで送って下さるとのこと。瞑目して待つ!

 何処かで風に吹かれているいつかの誰かは、牟礼鯨氏の本を、そして並べて書くのは恐縮であるが泉由良の文筆活動を、瞑目して待て! 未来は明るい、瞑目して待て!

牟礼鯨さんのblogは西瓜鯨油社。今日の次第を少し書いて下さった記事はこちら。鯨さんは時々わたしをウサビッチと呼んでくれるので、わたしはえへえへといつも喜んでいます。



■ 外食

 尼崎のコストコに家人Cさんと行ってそこで夕食を摂ろうという算段になり、パイナップルのスムージィを飲んだ。とても美味しかった。おなかもいっぱいになった。スムージィってなんて素敵なのだろう。台所グッズを揃えたいという感覚はあまり無いのだけれど(何故なら・調理することが・好きで・ない!)、ミキサというか、フードプロセッサは少し欲しい。小さい頃、実家の母は、夏は氷を入れたセーキを作ってくれていた。バナナセーキが美味しいの、と話したら凄く下品にその意味を捉えた、大学に居た頃付き合っていた男の子のあたまは大丈夫だろうか。元気でいればいいと思うな。

 本当のことを云うと、ハレの日はご馳走を制作するのも吝かではないのだが、ケの日ならコンヴィニエンスストアで賄えば充分だと思っている。ウィダーinゼリィよりも蒟蒻畑のゼリィのクラッシュしたパウチ飲料の方が美味しいと思っている。マンナンライフの会社に於いては蒟蒻畑をミニカップの容器ゼリィにしてなんども告訴されたり注意書きを書くことに精を出すよりも、こっちの吸ってのめるクラッシュゼリィのパウチ方面に乗り出した方がいいと思っている。話題はずれてゆく。ハレとケの違いを正しく知ったのは成人したあとだった。つまりケの日の食事などかなり気持ちが込められないのである、が、家人Cさんはたぶん同じような考えではいらっしゃらないので、わたしは時々、食事を作るよ!(時々、か……)

 でも本日は外食です。選挙の日の外食率って上がったのかしらどうなのかしら。AKBよりモー娘。世代のわたしです。投票いって外食してしまったよ。「もーむす」と打つと「モー娘。」と変換してくれるこの機能にどういう感情を持てば良いのか分からない。本当のモーオタは、「モー娘。」じゃなくて「娘。」と呼ぶものである、というこの知識を忘却しない自分に対してどういう感情を持てば良いのか分からない。