薄荷塔ニッキ

飛び石を渉れない。

the right eye

 鬼というものは結局のところ何のようなものだろう、と時折考えていつも分からない。生物としての実態が分からない。鬼だから生物として連想しようとするのがいけないのかも知れないし、でも天使は大体分かる気がするけれど鬼は分からない。
 例えば心に鬼がいる、とか、鬼のようなひと、という表現がありますが、激怒していて今にも怒鳴りそうな状態なのかな、というくらいしか想像がつかない。絵本などで見るとわらって遊んでいる鬼もいて、単に人間が変形して角が生えているものなのか。それともひとの心を失ったものが鬼なのか。人を喰うのが鬼、ということも聞くことがあります。

(高校生のとき文化祭の演劇で、私の科白のなかに「あんたたちって何なの? 鬼よ、なによ! 軍人なんて最低よっ! 犬っ! 畜生っ!」という文脈がありましたので、満州国の曲馬団の娘役だった私は軍人役の女子を大声で詰りました。迫真です。女子校だったので軍人役も女子です)

 もしかしたら昔の日本人は知っていたことなのかも知れません。霊と天使と神様の話はよく聞きますが、鬼についての詳細はうすらぼんやりしています。
 「鬼の目玉」という昔話が文中にキーワードのように出てくる本が好きです。
 鬼のような慟哭。まあ、そんな気分で過ごしています。(なのでこれが日記です)

ゆきの水、ゆきの夥しい気体、ゆきの液体、火の国、氷結せよ、 また粉々になれ
ゆき(ssss)から、ゆき(nnnn)へ


 『火は綺麗』より。電子書籍版と、単行本がそろそろ在庫が無くなるので、文庫化の作業に入ります。

 

火は綺麗

火は綺麗


 「鬼の目玉」が登場する好きな本はこれです。アンネ・フランクと死者と生者と鬼の目玉と政治と日常を巡る、〝いわれなき憎しみ〟と日本人の少女の日記の本です。と書くと堅そうですが、面白い箇所も多く大好きです。

 

私のアンネ=フランク―直樹とゆう子の物語 (偕成社文庫)

私のアンネ=フランク―直樹とゆう子の物語 (偕成社文庫)


 そういえば高木郁乃の「生きる」という歌にも鬼という語があります。
 私は購入したときからその歌が好きで、でも日々過ごすのはとても厭だったので、手帖に何度か「鬼として生きる」とその頃も書いていました。

 私は生きる 鬼になる 明日はきっと 鬼になる

 人間のままじゃ生きていけない気がするときも多いことは、変わらずあります。

 

生きる

生きる

 

 やさしいだけじゃ生きてゆけない ならばどんなひとが生き抜く?
 わたしは生きる 鬼になる 明日はきっと 鬼になる

 生き抜く、というほどの度胸は無いのですが、生きることの目的は死なずに存在しておくことです。
 (……ただ自傷的なことのひとつとして、頭皮を抉り続けているので、禿げが出来るかも……生きてても……?)