薄荷塔ニッキ

飛び石を渉れない。

金原ひとみ『アタラクシア』

 

アタラクシア

アタラクシア

 Natashaに先週借りた本を読了。江國香織で云うところの『薔薇の木枇杷の木檸檬の木』みたい、と思いました。Natashaは自分のことを由依という登場人物(というか実質ヒロイン)に気質が似ていると思っているけれど、私から見たら似ていないな、とLINEをしたら、ひとが見る自分と自分の思う自分は違うよねーと返信がきました。
 正直、誰が誰タイプだというほど、人間を書き分けられていないというか、むしろそんな凡庸なひとたちがそもそもの人間群像なのか、兎も角、『蛇にピアス』や『アッシュベイビー』当時は「尖り」だったなあと考えたりしました。今はどうなのだろう。それは金原ひとみではなく、年齢を重ねる自分の問題としてそこにある。

 (蹴りたい背中蛇にピアスだったら、後者のがましだと思ってたよ〜でもこれふたつを較べること自体ちょっとださいよね〜)

 

蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

 

薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木

薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木

薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木 (集英社文庫)

薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木 (集英社文庫)

 薔薇の木枇杷の木〜の方が、所謂「キャラ立ち」はしていると思うけれど、誰と誰とが不倫をしていて、その友人は誰と不倫していて、という感じの小説は、トランプ組み合わせていれば出来上がっちゃう気がするので、あまり技量が要らない種の本だと思う。
『アタラクシア』には東日本大震災の描写があった。東日本の作家の方が(つまり東京とかだ)震災を文学に織り込むことが多い気がする。川上弘美には驚いてしまった。むしろ阪神大震災後の文芸誌を読むには、私はまだ幼過ぎたわけで、だから比較は出来ない面もある。

 ○

 小説ではないが、短歌の世界では、震災後の歌という存在は大きい。京大短歌のような関西の短歌会でも、機関紙に確かに書き込まれていた。遠いからこそ出来ないことばかりある心、遠いところで怒張する何か、その詠草に揺さぶられる。