薄荷塔ニッキ

飛び石を渉れない。

2020/03/07 - note

 以下のnote記事の複写です。感想をおいおい付け加えます。
 基本的に全面的に反対意見ですし、このような芸能人のひと(声の大きいひと)が信者を集めているのは不愉快極まりないです。


絵柄と文化|春名風花|note




絵柄と文化

春名風花

2020/03/07 00:37

幼稚園の頃、近所に裸の女性のオブジェがありました。そこは公園とスーパーにはさまれていて、小さな子供たちの遊び場になっていたのですが、私はその全裸の女性像の前を通るたびに、なんだか分からない気恥ずかしさを感じていました。特に地域の祭りの時には、そこが金魚すくいとすいか割りの列が並ぶ場所になっていて、順番を待っている間に、近所の男子がその全裸の彫像に腰かけたり寄りかかったりして、普通に焼きそばや焼きとうもろこしを食べているのがなんとなく不愉快でした。

同じような女性像や男性像は街のいたるところに置かれており、そのほとんどが下着をつけていないことや、そんな姿の像が堂々と置かれていることが、私はとても気持ち悪く不快でした。特に横浜駅を通るときは通行人に通勤の男性が多い事もあって「このお人形たちは、なんで裸にさせられてるの?なんで大人たちはなにも言わないの?お外でパンツもはかずに恥ずかしくないの?顔も怖いし、裸だし、意味不明なポーズだし、何でこんな気持ち悪いものが飾られてるのかわからない」と、いちいち疑問に感じたものです。

その一方、幼い頃からアニメや漫画ばかり見ていた私は、アニメや漫画に出てくる、美しいお兄さんやお姉さんのイラストが大好きでした。細かい線や美しい彩色、きらきらと大きな目、大きなバスト、現実にはありえないような細くて長い脚のキャラクターたちは、「大人になったらあんなスタイルになりたいなあ」と、幼い私の憧れになりました。中でも特に大好きだったのは「少女革命ウテナ」や「パタリロ!」といった昔の作品で、女性同士が裸で向かい合ってくるくる回るオープニングや、美しい男性と美少年が寄り添う場面は、ため息が出るほど綺麗だと思いました。そこに美しいエロスは感じても、気持ち悪かったり不快に思ったことなどは全くなく、それらはむしろ「崇高で美しいもの」として、幼い私の記憶に刻まれました。小学生の頃は「ひぐらしのなく頃に」のストーリーにどっぷりハマって二次創作も買いそろえたので、そのころには耽美系だけではなく、萌え系の絵柄も可愛いなと思うようになりました。「めだかボックス」も好きでしたね。忙しくてなかなか動画が見れなかったためアニメでハマったものは少ないのですが、漫画は少女まんがから少年まんが、青年漫画、古いものから新しいものまで、移動中の電車の中で手当たり次第に読みました。中でも人間の身体の描き方が好きな先生は、中村明日美子先生、清水玲子先生、古谷兎丸先生、尚月地先生、沙村広明先生などです。温泉などで目にするリアルな大人の肉体や、街中にあふれる女性像や男性像がグロテスクで苦手で、性そのものに対する嫌悪感を持ちそうになっていた幼い私はその後、たくさんの漫画やアニメを見ることで「人間の身体は綺麗だなあ」と感動し、色気のある大人の裸体に対する、奇妙な偏見を持つことがなくなったのでした。ムダ毛も毛穴も体臭もなく、しわひとつない美しい人たち。私の性に対する嫌悪感や恐怖感を取り除いてくれたのは、間違いなくアニメ・漫画文化だと言えるでしょう。

私は、いまアニメの絵柄が街中に氾濫していることに、恐怖を抱く女性の気持ちがわかります。人間の体を魅力的にあらわそうとすると、そこには必ず性的な魅力も加算されるし、性的なオブジェと日常が交差するとき、私たちは誰でも不愉快になるから。「公共の場にこんなものを置くな!!」それはきっと幼い頃に私がみた、パンツをはいていない、上半身も下半身も丸出しの彫刻のあられもない裸体に対する不安と、街中にあふれるそれをなんとも思わず、その前で談笑する大人たちに対する軽蔑や嫌悪感と、まったく同じものだと思います。

ただ、その気持ちが良く理解できるからと言って、その要求を受け入れたくないと思うのは、私がそこに偏見や差別を感じるからです。「それは、アニメや漫画を下に見ているのではないか?」「これらの絵柄が、文化芸術として認められていないのではないか?」という、「絵柄による差別や、上から目線」を感じるからです。これは舞台をやっていて、「テレビに出ている役者が上で、舞台俳優は下だ」と言われてムカつく気持ちにも似ています。出たかった舞台のオーディションに受かって大喜びしていたら、「良かったね!早くドラマに出られるようになるといいね!」と悪気なく言われたときは、全身の血液が沸騰するかと思いました。私はドラマや映画の仕事も好きだった。でも、舞台に出会って感動して、努力して、やっとやりたい舞台に出られたのに、この人の中で今の私は「どうでもいい下積みの仕事」をしているようにしか見えないんだと思うと、大好きな舞台を馬鹿にされたようで、悔しくて悲しくなりました。自分が好きで大切にしているものを「下」にみられてブチ切れる感覚、これは味わったことがある人には分かってもらえるはず。

「これは高尚で価値がある文化だ、これは高値で取引されているから芸術品だ、これは世界的な美術館にも展示されている有名な・・・」本当にそうでしょうか。それらが生まれた当時は、それこそが大衆のための娯楽だったのではないですか。

これは私が好きな芸術だから、性器が丸出しでも公共の場に置いて良い、これは私がキモいと思ったから着衣でもダメ。誰かこれを「オタクが喜ぶから気持ち悪い」という個人的な生理的嫌悪感以外で、きちんと説明できますか。私に取っては、アニメも漫画も、立派な芸術であり文化です。もし性的なものを公共の場に展示することがダメだというのなら、そのルールはいま法律で定められている成人向けと同じように、「全ての創作物」に対して適用して欲しいです。もしもそこに、有名な絵画や彫刻は高尚だから良いけどアニメは低俗だからダメとか、権威に媚び、弱者を叩く、個人の差別心を持ち込むのなら、私は断固反対します。

話はそれますが、エロスを感じる感じないは「その絵柄をどれだけ見慣れているか」にもよります。アニメのエロにだけ過剰に反応してしまう人は普段からあまりそういう絵柄に触れていなかったりするし、普段アニメばかり見ている人は、ちょっとやそっとじゃ何も感じない。海外でブラをつけていない人を見てもふ~んで終わるけど、日本で見るとギョッとするのと同じです。

(あと、「リアルだと安心する人」と、「リアルだと恐怖を感じる人」という性格の違いもあります。アニメ絵が苦手な人は、ありえない体形が気持ち悪いというのですが、私はディフォルメされている絵は絵として認識するので、より不自然であるほど「フィクションの世界の中のエロ」になって現実の嫌悪感からは遠ざかっていきます。逆に彫刻やオブジェはリアルだったので、実際に性器を露出した変態が、駅前や公園の至るところに置かれているというような怖さがあります。)

結局のところは個人の嗜好であり、それに尽きる、としか言いようがありません。絵柄や表現方法は単なる個人の好みでしかありませんし、流行りの技術も美意識も時代によって少しずつ変わってゆきます。今の自分の価値観で、いまある文化を勝手に否定することは愚かです。次の世代が大人になるころには、それが美術館に展示されて、数億円の値がついているかもしれない。いま、AI技術を駆使し、大金をかけて現代に蘇らせようとされている手塚治虫先生の漫画が、子供に悪影響を与える悪書だとして、主婦団体に取り上げられ、よりによって学校の校庭で、それを愛する子供たちの目の前で焼かれていた歴史を、私たちは決して忘れてはなりません。



個人的に不快な気持ちを吐露することは構いません。誰にでも苦手な表現はあります。しかし、何をみて美しいと感じるか、何をみてキモいと思うか、何を性的だと感じるのかは、個人の内心の自由です。その個人の感じ方や感性に、一部の人が勝手に「優劣」をつけ、ある一部の表現だけを排除しようとすることは、人として、少しおこがましいのではないでしょうか。



春名風花