薄荷塔ニッキ

飛び石を渉れない。

2021.03.30 - Blume, und meine Oma

 曇りの日。
 家人Cさんは在宅勤務で、寝室に仕事机があるので、仕事をしている後ろでお昼に寝ていた。母方の祖父母の家にゆく夢をみた。なんとなく物悲しい夢だった。今、私の祖父母たちのなかで、母方の祖母だけが存命である。

 花がほたりと落ちて、なんとなく碗に水を張って浮かべた。まだ花そのものは壊れていないから、というような理由で。そう云えば父の方の祖母はこういうことをするのが好きなひとだったな、と思う。いつもあの家のテーブルには、花の浮いた器があったりした。食卓に何もかもをのせてごちゃごちゃにさせるところも同じだ。

     

 


 その祖母は厳しかった。いや、本当はそこまで厳しくはなかったかも知れない。生まれた瞬間から私たちきょうだいは、私学の幼稚園・小学校でカトリック教育を受けながら勉学に励み、京都大学に現役で入ることを要求されていた。それは私たちというより、主に私たちの母を圧迫した。私は女子だということで、料理などの遣り方も事あるごとに「練習」させられた。「なんでも練習」だった。幼稚園の帰りは、バス停で駅名を覚える、バスのなかでは知育的な手遊びを静かに遊ぶ。野草雑草の知識、歴史の知識、作法の知識……。
 勉強は好きだと思う。でも、他人よりも勉強に熱心になることによってお金儲けが出来るようになり、生活が贅沢に出来ると考えることは凄く厭だった。そういう人のように、私には見えていた。
「これくらいの生活がしたいならね、」いつの言葉だっただろう。「医者にならなきゃね」
 子ども3人を医者2人と数学教師に育て上げた祖母は、そう云った。医者という職業をそういう風に捉えらるのがとても厭だった。

 本当は、教育の話ではなく、幼い頃、母が弟たちの世話をするあいだ、私は祖母に預けられることが多かったので、なんとなくそれがつらかったことが、似たくない理由なのかも知れない。幼稚園のお迎えも、学習塾への送り迎えも、本当は母が良かった。というより、弟たちばかりが母と一緒に居るのを羨望していた。母、というより、ママがよかった。なんでたかちゃんとひろちゃんはママなの。なんでいずみはばあばなの。

 恨んではいけないと分かっている。本当に色々私の為に行ってくれたのだ。祖母も。母も。父も。

 でも私は祖母に似たくない。そして、顔の作りや体格、体質、思考の習慣まで何処か、似ている点を見つけてしまう。