薄荷塔ニッキ

飛び石を渉れない。

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 終戦の日、夫とふたりでカラヲケに行った(終戦とカラヲケは特に関係ない)。夫はコトリンゴのファンで、映画『この世界の片隅に』も観にいったことから、私が(偶然前日この日記で引いた唄である)「悲しくてやりきれない」を歌った。が、ちょっと、むっとした想いに駆られた。

 勿論私は『この世界の片隅に』を未見なので実際のところ何も云えないのだが、太平洋戦争の片隅に生きる女性の映画にザ・フォーク・クルセダーズのこの歌が使われるのはどうなのだろうか。サトウハチローはそのような意図を引く想いで歌詞をつけたのではないのではないかと思い(何しろ、叙情の詩人であり、「リンゴの唄」を戦時中に創って検閲不許可とされたひとである)、つまり私は、「この映画は良い感じに歌詞を利用したのではないか」という苛つきに駆られたのだった。コトリンゴのジャズ調がそれを加速させた(歌いたかったKOKIAヴァージョンはカラヲケに入っていなかった)つまり、戦時を描く映画に歌詞だけを都合よく利用されたように感じたのだ。それが厭だった。コトリンゴの美しいウィスパーヴォイスに感動したひとは多いだろうと思うけれど、そこにはコンテクストが無い。フォークソングとしての「悲しくてやりきれない」はここに無い。
 
 繰り返すが映画を未見なので私は何も云う資格が無い。ただ、『火垂るの墓』アンチが『この世界の片隅に』を絶賛するtogetterを読んでしまったりしたうえでこの歌詞を引いたと思うと、無性に苛立った。何が、どう、悲しくてやりきれなかったのだろう、何が、どう。(たぶん良い映画ではあるのだろう、またいつか観ると思う)

 
 アメリカひじき・火垂るの墓


 私は非戦の人間だ。そのことで、西成の呑み屋で喧嘩をしたこともある。そのときは酔ったおっさんに殴られたって構わなかった(夫に制止されてしまった)愛する者を守る為に戦うのはご立派だが、戦う相手にも愛する者はいるのだ。そのエゴイズムが気持ち悪くて堪らない。ただ、私のなかにもあるだろう多くのエゴイズムも、疎んじて堪らない。西成で喧嘩したからと云って、何処かでは降伏するかも知れない自分はエゴイストだ。自分がエゴイストであるという結局はそこに行き着き、それもまたエゴイズムなのだ。戦争、戦争、戦争。人間。どんな獣より下等な人間。それを私は、愛し合うしかない。