薄荷塔ニッキ

飛び石を渉れない。

牟礼鯨『日曜日の娘たちは星々をシャワーヘッドの穴だと信じている』

日曜の娘たちは星々をシャワーヘッドの穴だと信じている  予告の発表で題名にきょとんとした。つまり私は星々の穴がそんなに密集して空が空いているときなんて見たことが無い。それから、いつか子どもの頃、シャワーヘッドの穴が星々に見えたことを思い出した。穴が円ではなかったことと、こぼれる水滴が眩しくて、それはいつまでも眺めていたいと水滴で出来た星々だったことが、いつかはあった。そのシャワーヘッドの穴の形が、円ではなく星屑の形に見えていたからだろうと思う。日曜日の娘たちが浴びるシャワーヘッドの穴は、果たして星形だったのだろうか?

 第二回文学フリマ大阪にて入手。

 下世話な感想だが、以前は娼婦ばかり描いていた作家が今、父娘を描いている。それは、年月? そんなことを考えたりした。情緒には若干欠けるが読めないほどではない。こういう掌編が3本くらい入っている本があれば良いなと勝手に考えた。あと、校閲(?)とDTPを外注したというわりにこのテキストで良いのか、という点も考えたが、それは余計な御世話である。


 たぶん私は未だ母親像や父親像を小説に滑らかに書けない。祖父母も難しい。血縁を描くことはとても難しい。叔母、伯母伯父夫婦、というあたりが精一杯だ。文筆家は、それではいけないよな、と思う。それとも鯨さんはいつだって現代小説のなかで父娘のひたむき過ぎる愛情を書けるひとだったのだろうか。(結局自分自身の課題を想起させた一冊だった)